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最高裁判所第三小法廷 昭和60年(し)106号 決定

主文

本件抗告を棄却する。

理由

本件抗告の趣意一の1は、判例違反をいうが、所論引用の判例は事案を異にして本件に適切でなく、適法な抗告理由に当たらない。なお、本件取消請求の対象である執行猶予の判決の効力が申立人に及ぶとした原審の判断は正当である。

同一の2は、判例違反をいうが、所論引用の判例は事案を異にして本件に適切でなく、適法な抗告理由に当たらない。なお、原決定の認定するところによれば、本件においては、申立人が、捜査官に対し、ことさら知人幡中ひさ美の氏名を詐称し、かねて熟知していた同女の身上及び前科をも正確に詳しく供述するなどして同女であるかのように巧みに装ったため、捜査官は、申立人が右幡中であることについて全く不審を抱かず、両者の指紋の同一性の確認をしなかった結果、執行猶予の判決確定前には申立人の前科を覚知できなかったというのであるから、検察官が執行猶予取消請求権を失わないとした原審の判断は正当である。

同二は違憲をいうが、刑法二六条三号の規定が憲法三九条後段に違反するものでないことは、当裁判所大法廷決定(昭和三一年(し)第三二号同三三年二月一〇日決定・刑集一二巻二号一三五頁)の趣旨に徴し明らかであるから、論旨は理由がない。

よって、刑訴法四三四条、四二六条一項により、主文のとおり決定する。

この決定は、裁判官伊藤正己の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官伊藤正己の補足意見は、次のとおりである。

私は、刑法二六条三号の規定が憲法に違反するものではないとすることにおいて法廷意見に同調するものであるが、その規定を限定的に解釈することによってその結論に達することができると考えるので、その点について補足的に若干の意見を述べておくこととしたい。

刑法二六条の規定する刑の執行猶予の言渡の取消は、確定判決の一部を事後に修正するものであり、しかも、それは刑の内容そのものを被告人に不利益に変更するのと実質的に異ならない面をもつものである。被告人は、執行猶予の判決が確定した場合には、自己の責に帰すべき事後の事情が加わったときは別として、そうでない限り刑の執行をうけないものとの期待と信頼をもつのであり、憲法三九条後段による二重の危険の禁止は、被告人のそのような期待と信頼が合理的事由なしに奪われないように保護し、法的安定に奉仕するという趣旨を含むものと解される。そうであれば、執行猶予の言渡が刑の言渡そのものではなく、単に付随的処分であるという理由のみをもって、どのような場合にその取消を認めるかはすべて立法の裁量に委ねられており、そこに立法の妥当かどうかの問題はあっても、憲法に違反するかどうかの問題を生ずることはないというのは正当でない。したがって、刑法二六条の規定については憲法適合性を検討しなければならないことになる。

刑法二六条一、二号の規定は、執行猶予制度の趣旨、目的からみて刑の執行猶予の言渡に内在する合理的事由に基づく取消を認めるものと考えられ、憲法の許容するところであって、それに違反するものといえない。これに反して、同条三号の規定は、執行猶予の言渡をすることに障害となる前科の存在が後に発覚した場合に、すでに確定した執行猶予の言渡を取消すべきものとしているのであり、これをその言渡に内在するものとして予定されていたことが現実化したものと考えるのは必ずしも適当ではなく、同号による取消には、その文言上も限定がおかれておらず、合理的と考えられる事由のないにもかかわらず取り消されることのありうるのを認めているようにみえるのであって、これを違憲とする見解には耳を傾けるべきところが少なくない。しかし、執行猶予の言渡は刑の言渡そのものではないから、憲法三九条後段の定める二重の危険の禁止に関して刑の言渡と同じに考える必要はなく、適正な刑罰権の実現という利益と右にのべたような被告人の期待と信頼を保護する利益とを比較して、前者を優先させてよいとする合理的事由の存する場合には、刑法二六条三号を適用して執行猶予の言渡の取消を認めても、それが憲法に反するものとはいえないと解される。このように同号の規定を限定して解釈適用する限りにおいて、それを違憲とすべき理由はないと思われる。すでに同号に関しては、当裁判所の一連の判例があるが、そこでは、いわゆる上訴是正主義をとり、検察官が上訴をすることによって執行猶予の言渡のついた判決の確定を阻むことが容易であったにもかかわらずこれをしなかった場合には、検察官は執行猶予取消請求権を失うものとされており、これは合理性を欠く取消請求を排斥するものであり、その反面において、検察官が執行猶予判決を確定させたことについてやむをえない事由があるときには、なお取消請求権が失われないとされているものと解されるが、このような判例の立場は、憲法解釈についての前述の私の見解からも是認できるものである(なお、上訴で是正しなかったことがやむをえない事由によるものであるかどうかは、相当に厳格な基準でもって判断するのが憲法の趣旨に合致するものであり、更に現在の科学技術からみて、前科を早急に覚知できなかったことについてやむをえない事由による場合は少なくなっていることも注意すべきである。)。

本件においては、申立人は、ことさらに他人の氏名を詐称し、かねて熟知していたその身上及び前科を正確に詳しく供述するなどして巧みに装い、そのために捜査官が申立人の前科の存在を知ることができなかったというのであって、捜査官が申立人の右前科の存在を知らなかったことについて、仮に捜査官の側の対応に多少問題とされる点があったとしても、申立人の側の責に帰すべき事由が甚だ大きい場合であったというべきであるから、このような場合に執行猶予の言渡の取消を認めても、それが不合理な事由に基づくものということはできず、前述のような刑法二六条三号の限定された解釈のもとでも、取消を許される場合に該当するものと考えられる。

(裁判長裁判官 伊藤正己 裁判官 木戸口久治 裁判官 安岡滿彦 裁判官 長島 敦)

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